弥左エ門窯 松本家の歴史

松本家の歴史

松本家は営々として有田皿山の伝統様式である古伊万里様式の磁器製造販売に研鑽を重ね明治以降久しく途絶えていた古伊万里の貿易復活に見事成功をおさめました。アメリカ、ヨーロッパ各地はもとより、広くアフリカ、中近東に至るまで、弥左エ門窯の裏印であるゴールドイマリが高く評価され、又国内でも古伊万里様式の美術工芸品を作る窯として、近年益々その声価を挙げてきました。
また、今も住居として現存する松本家の家屋は、1900年代明治末期に建造された町家で、その造り一つ一つが当時の面影を今に伝えるものです。

松本家系譜
松本家家屋

弥左ヱ門系譜

初代弥左ヱ門

上幸平山の窯焼初代松本平左ヱ門の次男として生まれる。その後、成人し独立して弥左ヱ門窯を開く。この当時、有田の窯焼は藩から名代札を下付されて、内山12外山10の登窯を共用して業を営んでいた。上幸平山は内山の窯の一つである。弥左ヱ門窯は柿木小路と昔から呼ばれている上幸平西端の小径と大樽との間にあったので、一般には大樽口と呼ばれていた。

二代目弥左ヱ門

文政6年、弥左ヱ門の長男として生まれる。母はおいわといい彼が4歳の時に死亡。天保9年、彼が16歳の時に初代弥左ヱ門が死去したため二代目襲名し、窯焼を継いだものの、時勢は天保の大飢饉による不景気のどん底で、若年の彼では経営を続けることができずに廃業。その後放浪生活を続けたが、いよいよ生活に困窮し、親から譲り受けた家屋敷だけは守り抜きたいと遂に、家屋敷を人に貸しその家賃をもって講掛け(ギャンブル)を行い、自分は佐賀城内の成富質屋という豪家に下男として年季奉公する。物心ついては母の愛情も知らず、成人しては終始生活に追われて最低の人生を歩んできた彼だが、未だ年季があけないうちに思いがけず講が当たり、この下男奉公という最低の境遇から這い上がった。それから西村おともという7歳年下の女性と結婚するが、29歳の若い妻と乳飲み子を残し、36年の困苦に満ちた生涯を終えた。

三代目弥左ヱ門
三代目弥左ヱ門

母おともが唐物の行商を細々と行い生活費を稼ぎ、辛うじて雨露をしのぐ母屋はあるものの、赤貧洗うが如しの形容そのままの生活を少年時代はすごした。
15歳を迎えた正月、三代目弥左ェ門を襲名。母がコツコツと貯めた3千円をもとでに庶民金融の事業をおこなう。
貧乏のどん底で死んでいった父、借金で苦しんでいた母、貧乏人と蔑まれた自分自身のことを考えての決断であった。
事業は好調に推移し、17歳の時に泉山の窯焼深海米太郎の長女おうたを妻に迎える。


21歳の時に妻の父米太郎が死去したため、彼が支配していた西登窯の総支配人となり、次第に頭角を現してきた。
明治21年、地域産業の発展のため同士とはかり、共益株式会社という一般の町民のための金融会社を設立。(この共益会社は共益銀行となり、後に合併し今日の佐賀銀行となる)
当時有田には有田銀行1行しかありませんでした。
この銀行は有田の支配層である窯焼を中心とした銀行で庶民には近づきがたい面がありました。
そこで彼は一般町民が気軽に利用出来る銀行の必要なことを痛感し、町内の素封家蒲地兵右衛門氏の協力を得て洪益銀行の設立に踏みきったのでありました。
当時、巷間では有田銀行を殿様銀行、洪益銀行を草鞋銀行と呼んでいたことからも両方の性格は自ずから明らかであります。
その後この両行は良きライバルとして競い合い、地場産業の発展に貢献しました。

明治22年町会議員となり、更に、西松浦郡会議員、郡参事会員副議長等の要職に歴任した。
明治28年には、有田に徒弟学校の創立を計り、更にこれを、県立工業学校に昇格させる運動を続け、遂に明治36年佐賀県立有田工業高校となり今日に至っている。
九州鉄道会社の中樽貨物駅の設置から上有田駅の開設にも努力し、遂に明治42年上有田駅が開設された。
このため、焼物の商流が劇的に変わり、今まで伊万里商人の独壇場だったのが有田商人にとって代わられた。

昭和6年に75歳の生涯は終わる。 窯焼ではなかったが有田町全体の振興のため尽力を尽くした人生であった。

四代目弥左ヱ門

明治9年、有田で酒造業を営む渡辺源之助の次男として生まれる。
明治25年、彼が高等学校の2年に進学する時に、松本庄之助の養子となる。卒業後、伊万里銀行に入行させられるが、弥左ヱ門窯を再興させ海外に輸出を行うという夢を実現するため、明治35年、養父に黙って銀行をやめ、松本家を無断出奔し義兄前田儀右衛門から有田焼陶磁器見本十数箱を借り受け神戸を出航、インドのボンベイに向かった。ボンベイで資金が絶えた彼は、南アフリカのダーバンまで旅客運賃、貨物運賃共に着払いという異例の取り扱いで、デッキパーセンジャーとして行き着いた。ダーバンでは岩崎という唯一の日本人が洗濯屋を行っており、そこに転がりこみ、有田焼を質に金をかり、渡航費用を支払いそのまま、その洗濯屋を手伝う事になる。

三代目弥左ヱ門

ヨーロッパまでの渡航費用をここで稼ぐ腹積もりであったが2年半たった時、日露戦争が勃発し日本に戻らざるおえなくなり帰国。帰国後アフリカで覚えた西洋料理の味が忘れられず、妻に作り方を教え込みカレー、シチュー、スープ、ステーキ等をつくらせ友人を招いては西洋料理を食べさせた。当時、松本家の西洋料理は有田では有名でハイカラと呼ばれていた。有田焼輸出の夢が忘れられない彼は有田焼の貿易を目的とする陶磁器販売会社、有田物産合資会社を明治39年設立。今度は養父庄之助も快く承知し資金を提供し、これを機に四代目弥左ェ門を襲名する。生地の仕入れは有田磁器合資会社と肥前陶磁器合資会社を主体とし、赤絵付は古伊万里赤絵では定評のある鷹巣又四郎を専属とした。裏印と商号表記は□の中に有、即ちとした。

五代目弥左ヱ門
昭和15年 有田物産合資会社を継承し、株式会社有陶を設立し国内卸及び円ブロック(鮮、満、支)貿易において実績をあげる。
昭和22年 商号を有田陶磁器株式会社と変更、南方向けの食器の輸出貿易に進出する。
昭和28年 商号を現在の有田物産株式会社に変更、ゴールドイマリというブランド名で北米、欧州向け輸出に転換する。
シリアとモロッコに大得意先ができかなりの量の輸出を行う。
昭和32年 引先取有田陶業有限会社の生産設備を一切譲り受け、念願の窯元になり、弥左ェ門窯を再建する。
五代目弥左ヱ門

昭和39年 伊万里市に進出し、日用食器の生産を行う。ここに弥左ェ門窯は一般食器から花瓶、飾皿等の装飾品に至るまで、有田焼で出来るほとんどの品種が生産可能になった。
昭和43年 製品の品質安定と向上を計る為の陶土を自給するため西有田に陶土工場を設ける。
六代目弥左ヱ門

円が変動相場制になり200円を越した辺りより、輸出は値段が合わなくなり、販売先の主力を国内市場に移す。取引の大半が有田地場の卸商社、小売商人になる。平成6年、尾山工場老朽化の為、赤坂工場を新設し移転する。六代目はお酒が好きであり、平日は帰れば水割を飲み、休みの日は朝から水割を飲むほどウイスキー好きであるが、高価なウイスキーは嫌いで、サントリーホワイトが大好きである。車も高級車は嫌いでトヨタカローラを愛する誠実で素朴な男である。

六代目弥左ヱ門

七代目弥左ヱ門

九州大学経済学部卒業後、某都市銀行に入社。
3年間勤めるが実家に呼び戻され20億円の借金を整理するため民事再生を行い家業を継ぐことになる。
有田焼を今一度世界ブランドにするために、現代のライフスタイルに合ったモダンな有田焼「アリタポーセリンラボ」の開発を手がける。その中でも、日本の四季をテーマにした、新しいスタイルの有田焼「JAPAN」シリーズは、高い評価を得ている。

六代目弥左ヱ門

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松本家について

松本家は奥行4室型で、入母屋造り妻入りの概観を持つ明治後期を代表する町屋である。表の間にミセとナンド、奥に中の間、奥の間にブツマとザシキが続き、通り土間側にダイドコが張り出している。 2階は総2階となり、中の間上部は物置として、奥に次の間、座敷と続いている。通り土間・表の間・中の間の天井は化粧床天井で、着色された太めの柱・567890、梁と白い壁がコントラストを成している。中の間と表の間の間仕切りに設けられた堅格子戸は建築当初の面影を残している。中の間の箱階段は間口1間半で、引き違い襖の中に納められており装飾性の高い手摺が設けられている。一方、1階座敷に造られた箱階段は、間口1間で、手摺もなく、中の間のそれとは趣を異にしている。 又、1階座敷には、ダイドコ側に1.5尺の奥行を持つ床の間が造られている。2階座敷は床脇を略し、取込み平書院を持った床の間で、格調高くつくられている。

松本家家屋
箱階段

箱階段は主に動線の中心となる中の間に設けられ、明治以降に見受けられる。 踏板の下には、中の間から利用できる引き出し、引き違い戸とし、物入れなど利用され、箱を積み重ねた家具的要素をもつ階段である。

襖引き手

襖は建具の中で唯一径師職(表具師)がまとめ役となり、指物師、金物師、漆師の四職で技を競い合う建具である。柱と梁による線材構成で、開口部の多い日本の木造建築にあって、建具が空間の表情を決める程に重要であると同じように、引手はその建具の造り手や、旦那のセンスを彷彿とさせるポイントである。

襖引き手

欄間

襖は建具の中で唯一径師職(表具師)がまとめ役となり、指物師、金物師、漆師の四職で技を競い合う建具である。柱と梁による線材構成で、開口部の多い日本の木造建築にあって、建具が空間の表情を決める程に重要であると同じように、引手はその建具の造り手や、旦那のセンスを彷彿とさせるポイントである。

欄間

柿の木小路

松本家横にある小路。
カキノキシュウジと昔から呼ばれている小路です。
進んでいくと、右手に小路庵、突き当たりに辻精磁社のトンバイ塀があります。

小路庵

襖は建具の中で唯一径師職(表具師)がまとめ役となり、指物師、金物師、漆師の四職で技を競い合う建具である。柱と梁による線材構成で、開口部の多い日本の木造建築にあって、建具が空間の表情を決める程に重要であると同じように、引手はその建具の造り手や、旦那のセンスを彷彿とさせるポイントである。

欄間

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